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ネットクイズ界を縦横無尽に駆け抜けるでぃーどせんせー、と呼ばれてます。最近は上の写真のようにクイズやったり文章書いたりしてます。ページをwoman.exciteに移したいなぁと。コメントはご自由にどうぞ。


by banijya
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全力中年。(2010年の終わりに)【超長文】

必死に駆け抜けた、そんな1年でした。








仕事を辞めようと決意したのが昨年の8月。
精神的にも、肉体的にも限界でした。

とどめを刺したのは医師から言われた
「キミはその職場にいる限り、40歳という年齢を迎えられる、
ということは期待しない方がいい。」という一言。
それぐらい、私の内臓器官はもう限界点でした。
上の血圧が180。下の血圧が144。
看護士のおねぇさんが何度測ってもその数値。さすがにね。

まとめ役を請け負っていた「集まり」において、様々な
ごたごたが生まれたのも昨年の12月。自分のことで精一杯の時期に
さらに降って湧いたような話。私のキャパシティーはあっさりと
限界を超えました。身体への反動は、体内における消化酵素の分泌量に表れます。

私はどうやらそういう「消化酵素の分泌量が一定しない」という状況が
「精神の不安定さと反比例して表れる」という体質(病気とは思いたくないので
病気とは書かない)のようです。

仕事に追われているときとかは、平気で1食6合とか食べてましたから。
そういうわけで、12月末には、体重が100kgに手が届くところまでいきました。

そんな12月に、もう一つの衝撃。

昨年の12月。
私の「恩師」がこの世を去りました。

私の中での「尊敬する人物」であり、「目標」であった人。
そして、
「でぃーどん。もう、ええやろ?」の一言で
私の就職先を決めてしまった人。
私はこの人に「侠気」を感じていたのでした。

私がみなさんと接する時は、この「恩師」のような振る舞いを
イメージして、接しているつもりです。大きく構えて、そして
決めるべきところを決める。根回しをきっちりとする。

そんな恩師が、48歳という若さで旅立っていきました。
出棺の時に流れていた曲が小椋佳さんの「歓送の歌」。
それ以来、この歌が流れると脊髄反射で涙が出ます。


年が明けて2010年1月。
受験生を全く受け持っていなかった5年統括責任者ですが、
きっちりと受験引率には行きました。それも業務です。

たった2人の受験生相手でしたが、全力でやりました。
どちらも合格してくれて良かったです。

2月。
そして私の前職での仕事はおしまい。
最後の「歓送迎会」も、出席しました。
「何故出るんだ?」という声もあったようですが、
私はみんなにきっちりと挨拶して辞めたかったから。
自分の体調のために、辞めるということだったから。

そして何より、こんなにボロボロになるまで勤めるぐらい愛社精神はあったから。

会社を辞めたのに、まだまだ絡んでくれる前職のみなさんは、
私にとって素敵なみなさんです。本当に有り難うございます。
心から感謝しています。

2月にはいわゆる「集まり」も行いました。
私があまり前に出ない「集まり」にしました。
批判を受けた部分は改善しつつ。私なりに全力で。
それによって理解し合えずに私から離れていった皆さんを「非難」する
気持ちは「私には」一切ありません。他の参加メンバーがどう思っているのか
まで、一人一人聴いたわけではないので分かりかねますが。
私なりの思いは全て、伝えたつもりです。そしてこれからの方向性も。


3月。
少しだけ休んでから、次の仕事へ行こう。
(実は、次の職場を決めてから退職した、と思われていたのですが
一切そんなことはなかったのです。そういうのも言わないのが普通ですし。
そのせいで、まぁいろいろな誤解とかデマとかが飛んでいたようですけれど)
そんな風に思って、ゆったりと過ごそうと思っていました。
まずは身体を休めないとね、と。
身体を休めたら、やりたかったことをやるんだ。
お金はそれなりに貯まったし(退職金はほとんどなかったけど)、
1年ぐらいはゆっくりしてもいい、その1年の間に、夢だったこと
(一部の皆さんには言いましたけど、一応改めて書いておきます)
教育経済学の本場でもある、イギリスに留学しよう、と思ってました。
料理の練習を1年近くみっちりやっていたのもそのせいです。
イギリスはごはんが美味しくない、ってずっと聴いていましたし(笑)。

ところが。

仕事を辞めてから緊張の糸がぶっつりと切れたのか、
布団の上から1歩も動けない日々が続きました。
ほんとうに寝たきりに近い状態。何かイベントごとを起こして
やっているときは義務感に駆られているので何とかなるのですが、
そうでないときは本当に動けませんでした。それが証拠に何もしていないのに
この時から体重は一気に落ちていきます。

表向きには
東京行ったり、広島行ったり、名古屋行ったり、
四国一周をぐるっとしてみたり、といろいろ動いているような日々を
過ごしていると思われたかも知れませんが、そうでもしないと
心が保てなかったのです。きっちり、ある人の「タロット」で
見抜かれてしまうのですけれど。

旅先での私を知っている人はよく分かると思いますが、
よくぼんやりと「窓から外の風景を眺めて」います。
心を休めたい、と意識的に思っているときほどそういうモードになります。
電車では国盗りの関係上、さっとんに窓側を譲ってますけど(笑)。
私は取り損ねたらまた来ればいい、来る理由が出来たと思う人なので。

そろそろ動き出したい夏。
身体が少しずつ軽くなりました。
2月に仕事を辞めてからあっさりの-17kg。
ズボンのサイズが2つ変わりました。

少しずつ動き出したい、と思ったとき。

今度はおしっこの色が「赤紫」になりました。

数年前に私は「急性腎不全」と「腎臓結石」で
一度、のたうちまわった経験があります。

再発か?と思っていたのですが、そうではなかった模様でした。

ですが、身体中が酷く疲れる。
夏なのに、動けない。汗だけがバスタオルでぼとぼとになるぐらい
一気に出てくる。最後には着ていたシャツが直立不動で立つぐらいに。

今度は身体の水分調整バランスが崩れたのでした。
それを元に戻そうと四苦八苦している間に、8月になりました。

8月。
退職金などなどが底をついてきました。
そろそろ動き出さないと、というモードになったとき、
せっちゃんこと、せつなたんが私に声をかけてきました。

「週1でいいから働きに来ない?」って。

社会復帰の糸口としては、これぐらいからでいい、と思いました。
働きに行く、水曜日だけに体調のピークを持っていく生活のスタート。
それ以外の日は、とりあえずゆったりと。

そして、あるお二人から「結婚式の二次会の司会」を依頼され、
即座に快諾。しかし、そこにせっちゃんをあっさりと巻き込む。
まさにギブアンドテイクの感覚で。

9月。
久々の教室の空気。
チョークからホワイトボードペンに変わった感覚。
何か、どこか、懐かしい気持ち。
約半年の療養(続行中)を経て、少しずつ前へ。

10月。
週1から少しずつ日数が増えてきました。
中学生時代からの友人であったN氏(仮名)も、同じ職場に
いるのですが、彼からの依頼で、家からは2時間近くかかりますが
そちらの教室にも出向することになりました。

11月。
勤務日数が増えてきて、ちょっとずつ生活基盤のことを考えられる
ようになりました。正直に言って、給与面のことを言っていられない
という状況だったので、少しずつ、少しずつ、転がり落ちた階段を
昇るように一歩ずつ。



そんなある日。

うちのパパエルフが、病に倒れました。

病名は「腎細胞癌」。


内臓疾患はうちの家系的な物のようです。
家族に衝撃が走りました。
私自身も、ゆったりと構えるわけにはいかなくなりました。
自分のこともありますが、そんなことは言っていられません。


12月。
1日にうちのパパエルフの手術が執刀されました。
(私の主治医と同じ先生がやってくださいました)
約12時間。
その間に救急で担ぎ込まれた男性が「腹部大動脈瘤破裂」で亡くなられ、
家族が号泣されているというシーンに図らずも待合室で立ち会うこととなり
なんともいたたまれない気持ちになったり、自分と重ね合わせたり、
気が気でなく、精神状態がおかしくなりかかっているママエルフを
落ち着かせたり、なだめたり。

手術は無事に成功しました。
左の腎臓を全摘出しましたが、他の内臓臓器に転移は見られず、
3週間後、パパエルフは退院してきました。

その間に、岐阜でみなさんと会ったり、
大阪でみなさんを出迎えたり、ということもしました。

それ以外にも、有形無形の様々な人とのふれあい、そして
人からの相談などなどをいろいろと受けてきました。

これが「恩師」がたどった道なんだ、と思いながら。



今、私はその「恩師」が作った会社でお手伝いをしています。
最初からの既定路線では決してありませんでした。
こんな形になったことが今でも信じられないのです。
身体が治るのが早ければ、記したとおり、留学していた可能性も
否定できません。ですが、パパエルフがそんな状況になった以上、
少し私自身の夢は先送りしておかなければならないと思っています。

明日から、東京へ行って、療養中に出逢った「南青山商品研究所」の
公開録音に参加するため、出かけます。仕事納めも28日です。
メールが読まれるといううれしさと、ここまで体調が戻せた、
という自分の確認のために、出かけてこようと思います。
「裏南商研」で「ものまね」をやらなければならないようなのですが、
全く自信はありません。1分だけみなさんにガマンしてもらう気持ちで
「ボエー」とやってこようと思います。




ここまで、12月27日に書きました。
ここからは今、12月31日に東京より帰ってきて記しています。

最後の最後に、南商研の公開録音では「楽しさ」と「つらさ」を
二重で味わいました。シビアな世界を痛感しました。
「ものまね」に関しては、こうなるかなぁと思っていたので
いたしかたないと思っています。ボキャブラ的な言い方をすると
「お見苦しい点がありましたので一部CUTして放送します」ぐらい。
歌い終わってからは、「来なきゃ良かった」「出なきゃ良かった」
「このラジオ聴かなきゃ良かった」「もう、死んだ方がいいな」まで
考えてしまうぐらいのダウナー状態。埼京線のホームからたくさんの
「手が浮き出ている」幻覚まで見えました。

心が壊れそうになった瞬間。そして、調子に乗らずに、もう一度
しっかりやれよ、と言われたような感覚。ちょっとずつ前に進めれば、
と思います。

そして、次回の南商研へのメールに書こうと思ったのですが、
昨日、12月30日、公開録音は素晴らしく私の心にインパクトを
与えました。きっとあれが「無意識に笑っていられる楽しいという感情」
なのだと思います。今年、心から笑っていたのって数えるぐらいしか
ありませんから。

また、昨日、12月30日、発表されていたロト6で、
とんでもないことが起きた、ということだけ記させていただきます。
さすがに6つも数字は合いませんでしたけど。


ここまで書いて、あることに気がつきました。

「恩師」の命日は、12月30日でした。




2010年。もうじき暮れます。
帰りの羽田から乗った飛行機の中で、どーんと沈んだ気持ちで
ANAの「雲の王国」を読んでいたら、来年は一番いい年になる、
と占いに書いてありました。それをちょっとだけ信じて、前向きに
生きていこうと思います。

今年関わってくださったみなさま、本当にありがとうございました。
心からの感謝を込めて。

そして、また来年も、それ以降もよろしくお願いいたします。

クイズ的には[Sinker×Thinker]で初のペーパー抜け、という
普段からそういうクイズしかしていない状況が見え隠れしましたが、
アタックブをこっそり鍛えたのは私、とかいう変な見栄を張っておこうと思います。
ネットで見いだされた彼らが強くなってくれたことが3月の私の気持ちを
きっちりとつないでくれたので。

最後に私の座右の銘を。

「ボク、明日死んでもいい、っていうぐらい毎日幸せです。
 それぐらいの気持ちで行かないと、人生は充実しないですから。」
                  (ダンディ坂野さんのことばより)

激動の2010年にさよなら。そして訪れる2011年に幸福を。

                            でぃーど。
by banijya | 2010-12-31 23:46 | 日常よもやま話